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- カテゴリ:一般
- 発売日:2000/05/24
- 出版社: 岩波書店
- サイズ:20cm/338,30p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-00-005678-6
- 国内送料無料
紙の本
「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用
著者 アラン・ソーカル (著),ジャン・ブリクモン (著),田崎 晴明 (訳),大野 克嗣 (訳),堀 茂樹 (訳)
「ポストモダニズム」思想の分野では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされていることを指摘し、さらに、それらの著作に見られる自然科学の内容または自然科学の哲学に関連し...
「知」の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用
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商品説明
「ポストモダニズム」思想の分野では数学や物理学の概念や用語の濫用がくりかえされていることを指摘し、さらに、それらの著作に見られる自然科学の内容または自然科学の哲学に関連したある種の思考の混乱について議論する。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
アラン・ソーカル
- 略歴
- 〈アラン・ソーカル〉1955年米国マサチューセッツ州ボストン生まれ。ニューヨーク大学物理学科教授。
〈ジャン・ブリクモン〉1952年ベルギー・ウクレ生まれ。ルーヴァン大学に勤務。
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紙の本
教養主義の没落
2006/11/07 17:38
19人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者のソーカル氏は無意味な数式を羅列した全く意味のない論文を当時「もっとも権威ある雑誌」と目されていた「ソーシャルテキスト」誌に投稿。それがそのまま掲載されるや、自ら書いた論文の種明かしをし、全世界の度肝を抜いた。これがいわゆる「ソーカル事件」のあらましだが、なんとも痛快なことをやってくれたものである。著者の狙いはフランスなどの現代思想家たちの衒学趣味と欺瞞性を明らかにし、彼らの姿勢をその根本から批判するものであった。ソーカル氏はその狙いについて「思想家が数学や物理学をその意味を理解しないまま模倣していることへの批判だった」と後にコ述べている。論文に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者なら、それがいいかげんであることはすぐに見抜けるお粗末なものだったが、それらは著名な思想家たちが論文として発表しているものをそっくりそのまま引用したものだったのである。
日本でも、この手の衒学趣味の輩は多い。浅田彰、中沢新一、田中前知事など、みなそうである。空疎な言葉や概念を羅列し、現在の政治状況や社会状況を得意げに批判する。その道具として横文字やカタカナ語を羅列するのだが、それは一般人の共感を勝ち取ったり、一般人の理解を助け、自らの論説の説得力を増すためというより「どうだ、俺の教養の高さ深さがわかったか」「おれの言っていることの意味がわかるか、わかんねーだろ」という差別化の道具として、こうした言葉や概念を乱用しているのである。それは、あたかも全共闘世代が振り回した「実存主義」に似ている。昨今、「教養主義の没落」を憂える人が多い。西武百貨店を潰した駄目経営者の辻井喬こと堤清二なんかはその代表だろう。しかし、まさにこの堤清二らが振り回した空疎な衒学趣味こそが「教養」そのものの意味に疑問を抱かせ、「教養」の地位を破壊したと私は疑っている。こうした傾向を哲学者の田中美知太郎は批判し「ギリシャの哲学者は難解な言語を忌避し、日常誰でも使っている平易な言葉を使ったものだ」と語った。教養とは一体なんなのか、深く考えさせられる一冊である。読後感は痛快の一言に尽きる。
紙の本
知の根底を覆す学術的世界の事件
2018/05/13 17:03
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:病身の孤独な読者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代科学は過去の知識の積み重ねによって構築されている。その知を判定し知の体系の質を維持するのに、現代科学は多くの努力を伝統的に払い続けている。その方法が、いとも容易く覆した事件が生じた。その様子を描いたのが本書である。本書の著者らは、物理学の比較的権威のあるジャーナルに論文を投稿し、知の判定を受けて投稿した雑誌に論文が掲載された。しかし、その論文はあたかも論理が繋がっているように、専門用語を駆使してテキトーに作った論文である。それが波紋を呼び、本書で知のあり方について語られている。「知とは何か」を覆す人類史上の大事件を楽しめる名作である。
紙の本
ポスト構造主義、ダメじゃん。
2001/09/03 15:56
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:山屋敷 - この投稿者のレビュー一覧を見る
うーん、衝撃的。
率直に言えば、いわゆるポスト構造主義の代表的学者といわれる人々が、いかに自然科学の概念を濫用しているか、そのでたらめっぷりを検証してしまった本だ(あえてポストモダンって書かないのは、僕が勝手にレヴィ=ストロースとかは偉いって思ってるから)。
僕みたいに、ポスト構造主義の本なんてきっちり読んだことなくて、でも本書を読んでみようと思う程度には興味があったりする人間には、「ポスト構造主義ってダメダメじゃん」と思わせるには十分の破壊力だ。
少なくとも「使い方がでたらめ!」という主張は、どー考えても本書の著者たちの完勝。彼らの話の進め方はこんな感じ。既存の自然科学用語が論文の中に出てきたら、これに関する読者の解釈は、普通は次の三種類。
解釈1.比喩として使用
解釈2.自然科学的概念として使用
解釈3.全く新しい概念として使用
まず、解釈3はない、らしい。参照論文や本を全部チェックした上で、「そういう新しい定義した箇所はなかった」ってことだ。ま、ソーカル・ブリクモン組の作業・主張を信じるって留保はつくけど。
次に解釈1、比喩のケース。比喩の使い方って、理解を助けるためにより分かりやすい概念に喩えるのが本来なはず。でも、例えばラカンの使ってる「開集合」「コンパクト」「トーラス」……。うーん、どれも一般には馴染みがない。
なのに、何でこんな難しい概念を比喩に使うの?って訳。
あと「数学的には」「厳密に」って書いてる所もあって、そんな場合は比喩じゃないないって話になる。
で、解釈2。自然科学本来の概念として使っている場合。どう見ても自然科学的概念としては混乱をきたしてる、と本書は指摘する。だって、対象に数学モデルが適用できる(例えば、精神科学にトポロジーが適用できる)っていう点について、その理由を何にも論じてないし、用語の扱い方もかなり恣意的に見える。
つまり解釈2でも変って事。
ソーカルとブリクモンは、この部分を「だれでもが検証するのは難しい」って書いてる。そうかもしれないけど、いくらか奥ゆかしい表現とも言えそうだ。少なくとも数学に関しては、大学の数学科一年生でも、十分間違いを指摘できるレベルだってのも事実。
本書の批判(あるいはポスト構造主義の諸論文の擁護)をするときは、ここはしっかり押さえておいてほしいと思った。
「連続」や「微分可能」は、微分積分みたいな名前の講座で、確実に一年生でやる(高木貞治「解析概論」とか、杉浦光夫「解析入門」とかでチェックしてみて)。「開集合」や「コンパクト」も、数学科一年の自主ゼミレベル(松坂和夫「集合・位相入門」とか。これ、bk1では「利用対象:高校生、一般」とか書いてあるぞ。高校生?)。
要するに俎上に載ったポスト構造主義の論文は、その程度のレベルの概念を間違って使ってる。
で、総合すると、解釈1〜3のどれも不適切なのに、一体この自然科学用語の羅列は何なの? ってのがソーカル・ブリクモン組の指摘だ。ごもっともな話だ。
もちろん、自然科学的概念を扱わなかった部分にこそ、これら「ポスト構造主義」の論文の真価があるって主張はありうる。本書では、その可能性を否定してない(日本語版序文でも、はっきりそう書いてる)。
でも、しろうとの素朴な疑問。例えば、ラカンからトポロジーを抜いたら何が残るの?
僕はこの辺の事情に疎いから知らないだけで、誰かがきちんと反論をしてくれているに違いないってのが、今とっても期待している話題。ただし反論風の、実は人格攻撃(ルサンチマンがどーとか)なんかはパスさせてね。興味ないから。
きっちりした反論聞くまでは、個人的には「ポスト構造主義ってダメダメ」ってことになっちゃうんだろうな、残念だけど。
紙の本
ソーカルたちの努力に一票
2001/02/11 16:10
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ソーカルたちが本書で企てている二つのこと──つまり人文・社会科学系の著者たち(というよりポストモダン系の思想家たち)の数学や科学的概念濫用の指摘と認識的相対主義批判──は、実のところまったく別の事柄なのではないか。ついでに書いておくと、曖昧な文章への批判もこれらとはまた別の次元の話だと思う。
ソーカルたちが本当に試みたかったのは「エピローグ」にあるポストモダニズム批判なのであって、そのためにこれほど延々と引用と揶揄を重ねる必要はなかったのではないか。いまひとつ、ついでに書いておくと、数学や物理学の概念が間違って引用されているとしても、そのことと文章が意味不明あるいは無内容であることとは、これもまた別の話だと思う。
そして「はじめに」に記されている著者たちへの批判はほとんどあたっているのではないか。これに対するソーカルたちの反論にはあまり説得力がないのではないか。付言すると、パロディであろうが贋作であろうが、いったん公にされ読者に受容された論文はもはや著者の思惑を超えたものだ。たとえ、後になって『知の欺瞞』に書いたことはこれもまたパロディだったとソーカルたちが明かしたとしても、だからといってこの書物の価値が減ずるわけではない。
と、ずいぶん否定的な書きぶりに終始したものの、最終的にはソーカルたちの努力に一票。ただし、だからといって、たとえばドゥルーズやガタリの面白さがいささかなりとも減ずるわけではないし、精神とトポロジーにはなんの関係もない等々とソーカルたちが論証もなく決めつけているのに対しては、岡潔がかつて語ったという、数学は自然科学の粋ではない、精神科学の粋なのだ云々という言葉がいやがうえでも重くかつすがすがしいものに思えるとだけ遠吠えておこう。
紙の本
ルサンチマンと金魚のフン
2001/06/23 22:19
16人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:エリオット・ネス - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の一人ブリクモンが来日したので講演会が開かれ、私も参加した。そこで彼は2時間も喋ったが、その内容は実に簡単に要約できる。「フランスでは科学がはやらない。デリダは読まれてもアインシュタインは読まれない。残念だ」。
たった2時間の彼の講演と本書、および関連情報から判断するのは迂闊だろうが、しかし、彼がフランス思想界に対してルサンチマンを抱いていることは、その講演会に参加した多くの人が感じていた(少なくとも事後の私の個人的な情報収集によると)。
ブリクモンについていえば、ただのやっかみかもしれない。ご用心、ご用心。
ソーカルがソーシャルテキスト誌でやったことは、当のソーカル本人の意図はポストモダンの数学概念乱用に対する警鐘だったのだろうが、ソーカルが正しいのではなくソーシャルテキストの編集委員会が迂闊だったに過ぎない。その迂闊さとは、ソーカルの論文がナンセンスかどうかを見抜けなかったことではなく、「投稿された論文は査読者が認めれば論文誌に載る」という論文誌ギルドの制度を公に認めなかった迂闊さだけである。
ソーカル本人の意図なんて問題ではない。査読者がOKを出せば、それは学会誌に載り、世間に流通する文書となる。それだけのことなのだ。それをどう解釈するかはソーカルの意図とはまったく無関係だ。それをソーカルもソーシャルテキスト編集委員会も意識していなかった。テクストとは何か、コミュニケーションとは何かを真剣に考えていなかった間抜けたちによる、狐と狸の馬鹿しあいだ。
なにより困るのは、それをみて大喜びする間抜けな日本の「ソーカル信者」達である。それこそ、虎の威を借るミミズである。
こまった本だ。
紙の本
2000/7/23朝刊
2000/10/21 00:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:日本経済新聞 - この投稿者のレビュー一覧を見る
八〇年代後半から、「知」の大きな潮流になったポストモダン哲学。これに真っ向から挑戦する一つの事件があった。物理学博士である著者の一人が、米国で人気のポストモダン系学術誌に「近年急増してきたタイプの論文」に似せた「パロディー」を投稿し、見事(!)受理されて出版された後、いたずらを公表したのだ。物理学や数学を無意味に濫用(らんよう)したこの論文は「科学的」というアプローチに根本的な疑問を投げかけた。
こうした経緯から、本書は後に「サイエンス・ウォーズ」の名で繰り広げられる科学論争の火種になった。著者らはラカン、クリステヴァといった思想家たちの論文を取りあげ、「さも関係ありそうに科学の言葉を羅列するという一種の詐欺」を過激に指摘していく。今後の科学や哲学の動向を見極める上で、欠かせない一冊だ。田崎晴明ほか訳。
(C) 日本経済新聞社 1997-2000
紙の本
第一線の思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考を指摘
2000/07/09 06:56
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:三中信宏 - この投稿者のレビュー一覧を見る
いわゆる「サイエンス・ウォーズ」の火ぶたを切った張本人とされている、物理学者アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの話題の書『「知」の欺瞞』がようやく日本語で読めるようになった。社会構築論を標榜するポストモダン人文科学と素朴実在論を楯にとる自然科学との激論を期待する読者は、見事に裏切られるだろう。本書はそういう論争の書ではない。むしろ、現代の一部の哲学に見られる「当世流行の馬鹿話」(原著のタイトル)−すなわち数学・物理学などの科学の誤用と濫用−を徹底的に暴いた本である。現代哲学のビッグネームたちが次々と俎上に上げられては、なます切りにされている。自然科学者の目から見て明らかなまちがいを、「彼ら」が何一つ理解できていないのは滑稽ですらある。たいへん刺激的でおもしろい本で、私は笑いながら読んでしまった。
訳書の帯には正しく「これは,サイエンス・ウォーズではない」と大きく書かれている。確かにそのとおりである。「科学戦争」というキャッチコピーはあたかも両者が丁々発止の戦いを繰り広げているかのような誤解を生んでいる。しかし、私は、本書を読んで、むしろ別宮貞徳の名物コラム「誤訳・迷訳・欠陥翻訳」を連想してしまった。サイエンス・ウォーズという大仰な言葉とは裏腹に、本書は淡々と現代の第一線の思想家たちの誤思考・迷思考・欠陥思考を指摘し続ける。勝負は最初からついていたのだ。一読をお薦めする。