「そんなわけねえべ。まっと寝ろ」
そう言った途端、離れの馬小屋で、馬が飼い葉をねだって前肢で柵を蹴る音がした。
はっとして起きあがると、闇の中で息子と目が合った。
「……よその馬っこが牧野(ぼくや)から逃げてきたのがもしゃね。見てくっから」
褌一つで土間におり、ちびた下駄を突っかけて外に出た。月が出て明るく静かだった。柿の葉がつやつやとしており、馬が甘えたようにひんひんと鼻を鳴らすのが聞こえた。
「アオ!」
息子が馬小屋に駆け出した。額に星もなく、口の中以外は全部黒だったうちのアオの影が黒々と見えた。真っ黒な目に月が差して光った。信じられなかったが両の目に涙が滲んだ。息子の後を追った。遠くから来たのだから淵に連れて行って体を洗ってやらねばと思った。それにしてもよく生きて……
馬小屋はいつものように空だった。
「さっきまでは居だのに……」
息子が小さく呟き、泣き出した。
しばらくして、同じ郡内のIさんの元に軍馬K号が未摘出の弾丸と勲章を携えて帰ってきたという話を聞いた。報せがあって練馬まで迎えに行き、K号と一緒に五百km余の道のりを歩いて帰ってきたそうだ。
K号は、この山を降れば家という所で初めて嬉しそうに嘶いたという。それは月夜のことで、Iさんはなぜだか沢山の馬を率いて来たような気持ちになったらしい。
<大賞受賞コメント>銀峰
私の拙い文章を評価していただいたのは望外の喜びです。ありがとうございます。
異国の土となり、故郷に帰れなかった多くの軍馬(軍用動物)のことを思い出すきっかけになれば幸いです。